写真を撮る=盗る?

いわゆるストリート写真を撮る人たちは、プロアマを問わず、一度ならず写真は撮る=盗ることじゃないか、と感じたことがあると思う。それはかならずしも街ゆく人々を(たとえ後ろ姿でさえ)撮るときだけじゃなく、展示公開されている彫刻や絵画などの作品や、建物、とりわけ民家を撮るときに、さらには小動物を撮るときでも頭をよぎるのではないだろうか。

対象が、個人のプライバシーや個人の財産(家屋などのプロパティー)に属する場合にははっきり「盗る」感覚が生まれると言えるだろうが、そうでない場合、犬や猫などの小動物でも生まれるとすればそれはいったいどうしてなのか。撮るときにこころの中で密かに「写真撮らせてね」と断りを入れていたりする。

では、海や山などあきらかに無主物の自然を撮る場合はまったく感じないと言えるのか。「盗る」感覚とまったく同じではないが、その自在のあり方に「介入」している感覚はうっすらとある気がする。

だとすれば、「盗る」感覚も、「介入」している感覚も、対象と撮り手が共有している時間を撮り手が「一方的に写真として切り取る行為」を行っているから生まれているのではないか。

Lumix GX1

年末から年が開けても何も書いていなかった。

ウクライナでの戦争は続いているし、12月からはじまったイスラエルのガザ攻撃も残酷さを増し続けている。そこに正月に能登大地震が起こり、政府や県の考えられないような初動対応の遅れがあり、X(旧ツイッター)などでは、それを誤魔化そうとするネトウヨ連中が暗躍する事態になっている。死者はすでに200名を超え、現在も行方不明者は増え続けている。というわけで、考えることが多くて書く余裕がなかった。

今回はGX1のことを。このあいだ使ってみて、11年以上前、2011年製のカメラだが、改めてその実力を感じた。たぶん以前使った時点ではこのカメラに対する自分の理解が浅く、十分に使いこなしていなかったのだ。下の写真は掲載ずみだが、このカメラの実力をよく示していると思う。最近作の「高台からの光景」シリーズもこのカメラで撮っているが、日中、光が十分だと階調も滑らかだし、解像力も半端ない。GF1といい勝負。フルフレームにも引けを取らない描写力だと思う。

改めて

今日は久しぶりに Lumix GF-1だけで撮ってみた。帰宅してデータを見ると、ほとんどが(あくまで自分の基準では)Jpeg撮って出しでOKだった。曇りの日で、明暗差が大きくなかったからなのも理由だろうが、それにしても他のカメラでは滅多に起こらない。改めてこのカメラの凄さを感じた。

youtubeでは(もちろん時間をかけて調べたわけではないが)GF-1だけを取り上げている動画はほとんどない。GFシリーズの中で初代機としては取り上げられているが、それ以上に、とりわけ描写力や階調のなめらかさなどの画質について特集しているものは見当たらない。

下の画像にこのカメラの良さがよく現れていると思う。

3,000点超え

写真をこのサイトに掲載しはじめてから、ちょうど1年が経ったところで、掲載点数が3,000を超えた。360日で割ると、一日あたり8点ほど撮ってきたことになる。写真ビギナーとして多いのか、少ないのか分からないが、写真を撮ることの面白さで続けられてきたのは確か。もっとも飽きっぽい性格なので、今後どこまで続けるのかあまり自信はないのだが。

どこが面白いのかと自問してみるのだが、やはり写真の持つ偶然性ではないかと思う。それは撮った結果が、撮り手の技術や知識や意図、あるいはまたカメラやレンズの性能などを超えた次元によって象どられているということだろう。

絵のような

先日、辻堂の海浜公園で撮ってきたものの中に何点か、自分で言うのも気恥ずかしいが、絵のようだなと感じたものがあった。

今月3日に書いた記事「何気に収まっている画」とほぼ同じ印象。そこで書いたように、全体の明るさや、構成物のバランスなどを含む構図も関係しているだろうが、ここでは、空の「青」、雲の「白」、背景の林やヤシの「緑」、それにテントのカラーの抑えた色味(色乗りと言うべきか)が果たしている役割も大きいと感じる。パナソニックのマイクロフォーサーズカメラがもつ独特の色味という人たちもいるようだ。

でもここで言いたいのは実はそのことではなく、いくつかの要素が重なった時に、ある写真が見る者に与える「永遠」というしかない印象についてだ。写真は秒の速さで、レンズに映る世界映像を切り取るもので、しかもほとんど偶然の所産である(太陽の位置など)。その秒でとらえた世界映像が永遠の印象を与えるということになる。時は流れる。だが写真は時を「永遠」に止めることができる。

新しいレンズ

マイクロフォーサーズでも、レンズで写真が大きく変わる体験をしたので、新しいレンズに挑戦してみることに。

これまでメインで使ってきたのは、キットレンズのLumix G 20mm F/1.7 と、Lumix D VARIO 14-42mm F/3.5-5.5。今回導入したのは、Lumix G 25mm F/1.7で、フルフレーム換算で50mmの標準的な単焦点のレンズだが、F値が1.7なので、比較的に明るい。下に貼っておくが、このレンズで実際に撮ったものが、ページ1、2で掲載したもので、典型的なものがタイトル「入江の対岸側」。

明らかにこれまでのレンズと比べ、解像度、色表現、階調も上回っている。ちなみにカメラは、キャパを再確認したかった Lumix GX1だが、このカメラも新しいレンズで蘇った感じ。

Lumix GH2 の見直し

この前、手に入れたLumix GH2がいまいちだったと書いたが、装着するレンズを変えて撮ってみたところ、見違えるほどいい画が出てきたので驚いた。たとえば下のフヨウを撮ったものは、文字通りJpeg撮って出しで、まったく調整していない。ふつうは多少とも調整が必要なコントラストや階調もその必要がないほどピッタリ収まっている印象。

しかも、これはたまたまそうだったということではなく、実は、今日アップした20枚ほどのほとんどが Jpeg撮って出しで済んでいる。これはいままで使ってきたいろんなカメラ(フルフレーム、APS-C、I型、マイクロフォーサーズなど)で経験したことがなく、結構すごいことだと思う。

ちなみに使ったレンズは、Lumix G 20mm F/1.7の単焦点レンズ。

ということは、一定水準をもつレンズと合体すれば、GH2の画像エンジンは優れた画を吐き出すということになる。というわけで前言撤回。

何気に収まっている画

目で見えている光景と、ファインダーや液晶の画像を何度か行きつ戻りつしながら画角や露出補正、ボケ具合などを考えて決めて撮っている写真が大半だが、中には、直感的にその光景から受ける印象がいいなと思い、ほとんど調整なしでパッと撮ってしまうケースもある。

そうして出てきた画は、もちろん失敗作やなんの変哲もない場合もあるものの、光景を構成するものがあるべきところに収まり、全体がなんともいえない雰囲気を醸し出していることがある。たとえば下に貼り付けたものがそうだ。

もちろん収まっているとか、雰囲気かといっても、客観的なものではなく、あくまでカメラを構えた私の主観的な印象だから、その画をみる第三者が同じような印象を持つとは限らない。なにより第三者は私と同じ光景を見て画を判断しているわけではない。その意味では、写真は画家が描く絵画と同じような性質を持っていると言えるだろう。

しかし中には、私とまったく同じわけではないにしろ、写真だけを見て独特の雰囲気のようなものを感じる人もいるだろう。写真は絵画か、という問いにはそう簡単には答えられそうにないが、少なくとも両者が上にのべたような共通点をもっているのは確かだと思う。

Lumix GH2

ここ数日、入手した Lumix GH2 を使ってみた。発売が2010年10月になっているので、13年ほど前のカメラ。

Lumix ブランドのマイクロフォーサーズのカメラは、GF1、GF2、GX1 と使ってきて、Lumix でフラッグシップ機とされてきたGHシリーズではどの程度実力があるのか興味があったので、ボデーだけヤフオクで9,000円少しで落札。

使ってみた感想。残念ながらGF1を超える画質は出てこなかった。確かに解像度は上がっているものの、GF1の持っている立体感(私の言葉では「抜けてる感」)は出せていない。ただし、レンズによってはGF1以上の立体感を出せるかも知れない。欠点としては、撮影感度ISOで、低い値でもノイズが出やすくなっている気がするし、ダイナミックレンジも狭く、明暗差が大きい場合は白トビしやすい。評価の高い動画はまだ撮っていないのでなんとも言えない。

機能はまだ使っていないものが多いので、レンズ種類、撮り方によっては優れた画を出せる可能性があるので、この点は留保しておきたい。

偶然性

下にはったのは、最近撮った中で気に入っているものの一つ。植物園的なエリアに一本だけ茎が折れ、花が地面に着きそうなカンナがあり、そのかたちが面白くて撮ったもの。その時には露出とか、構図とかはほとんど意識しなかったが、出てきた画は明暗、アングルなどを含め、意外にバランスが取れていたので我ながら驚いた。

光の強さなどはもちろん、上にあげたことのすべて偶然の結果なので、あらためて写真の魅力の一つは偶然性にあると思ったしだい。