いわゆるストリート写真を撮る人たちは、プロアマを問わず、一度ならず写真は撮る=盗ることじゃないか、と感じたことがあると思う。それはかならずしも街ゆく人々を(たとえ後ろ姿でさえ)撮るときだけじゃなく、展示公開されている彫刻や絵画などの作品や、建物、とりわけ民家を撮るときに、さらには小動物を撮るときでも頭をよぎるのではないだろうか。
対象が、個人のプライバシーや個人の財産(家屋などのプロパティー)に属する場合にははっきり「盗る」感覚が生まれると言えるだろうが、そうでない場合、犬や猫などの小動物でも生まれるとすればそれはいったいどうしてなのか。撮るときにこころの中で密かに「写真撮らせてね」と断りを入れていたりする。
では、海や山などあきらかに無主物の自然を撮る場合はまったく感じないと言えるのか。「盗る」感覚とまったく同じではないが、その自在のあり方に「介入」している感覚はうっすらとある気がする。
だとすれば、「盗る」感覚も、「介入」している感覚も、対象と撮り手が共有している時間を撮り手が「一方的に写真として切り取る行為」を行っているから生まれているのではないか。